2004年1月 4日

木を植える男

元旦は、両親と祖母が住んでいる家で、集まってきた叔父叔母従兄弟従姉妹たちと過ごした。
2日には伊那に住んでいる妹の家族5人が上京し、そこへ母がボランティアで教えている日本語会話教室の生徒さんたちが加わって、日本ベトナム中国インドネシア入り交じった汎アジア正月的会食になった。
サイゴンやらメコンの風景つきの結婚式の写真を拝見したり、インドネシア語を久し振りに聞いたりしていると、道端にデロニクス・レギーアの咲く雨期の熱帯アジアの空気がよみがえってきて、うーむ。またインドネシアに行きたくなった。

「パークハウス」を再見して、「木を植える」ということについてまた、あらためてうだうだと考える。人はなぜ木を植えるのか。

仕事柄、植物を扱うことは多いけれども、普段はつい、作り手の論理でものごとを見ているような気がする。たまに、パークハウスのオーナーのような、ガーデニングの「当事者」に直に接して、いわばプリミティブな「実践」を目の当たりにすると、そのことに気付かされる。

そこに住む人が庭に木や草花を植えたり、ベランダや窓辺に植物の鉢を置いたりする、それ自体はよくある光景だ(パークハウスのように、屋上にまで土を盛り上げて樹木をガンガン植えるというのは必ずしも「よくある」光景ではないけれど、パークハウスは、住宅の「屋内」と「庭」が交差して接しているみたいな作りなので、屋根といってもまあ庭みたいな場所である)。機会があれば、ぼくらは「植物を植えがち」である。

僕らが植物が豊かにある場所に惹かれるのは、これはもう、どうしようもなく僕らの中に刻み込まれてある強い「傾向」である。植物が多く生息しているという光景は、その場所の環境の「よさ」を示すものとして僕らの目に映る。生態心理学や進化心理学の説を借りるなら、生物としてのヒトはその生息するに適した環境の状態を見分ける能力を有していて、ある種の風景に魅力を感じ、快適さをおぼえるのは、本能として「そのようにチューニングされている」のである。

こういうことを言うと、それは「地面に植物が生えがちな」湿潤な日本に住んで、自然観・風景観を育んでいる僕の「ローカルな」感性なのではないか、というようなツッコミが必ずある。でも、極地で必死に、としか言いようがないような環境で生活している(いた)ような少数の極端な例を除けば、世界中どこでも、ヒトはおおむね温暖で植物の豊かな地域に生活している(いた)のである。生物・ヒトのニッチなんてそんなに広くない。

むろん「文化的な」嗜好の差もバカにできないくらい大きいだろう。庭園の様式なんて、時代や地域によってぜんぜん違う。でも、その庭園の様子が保証する環境、というような、いわば「庭園の生態学」的なレベルでは、たとえばイスラム式庭園と日本庭園とイギリス風景式庭園とのあいだにそれほど違いはない。

近代、イギリス風景式庭園の「輸出」と「普及」時代以降、世界中の庭園や公園が似たものになってしまった。それは、アングロサクソン的価値観・自然観による「風景のグローバリズム」、木下先生の言う「パストラルの世界制覇」という一面もたしかにあるのかもしれないけれども、それだけでは説明できないように思う。もともとヒトはそういう嗜好を有していて、パストラルな風景デザインの手法がそこに「はまった」という見方はないだろうか。独自の伝統的庭園様式なんて、それまで、それぞれの土地の固有な事情に制約され、やむなく自然環境にある程度寄り添って作られていただけで、造園・土木技術によって大々的な造成が可能になった途端、潜在的嗜好が発現して、いわば多数決で「パストラル」は選ばれた風景なんじゃないだろうか。なんてことを思うこともある。

と、あれ?こんな内容の話になるはずじゃなかったんだけど。でも眠いので、以下、つづく。

・現実に、限られた資源や住宅地的制約のなかでガーデニングするということ
・「森林」と「維持管理」について
・SDの「ランドスケープのディテール」特集で腑に落ちなかったこと

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