2009年5月 7日

君の知らないメロディ、

僕はこれまでの人生の「区切り」を、その当時住んでいた場所に強く結び付けて憶えていて、小平に居たときとか田端新町に居たころというような「場所の記憶」が個人的な思い出の「タグ」になっているような気がする。

こういう「記憶の見出しのつけ方」は、たとえば自宅の蔵書の検索と似ている。僕は書棚を家中のいろんな部屋や場所に散在させる癖があって、特定の本を探すときの記憶のタグは「家の中の場所」である。たしか、このへんの薄暗いところに、探している図版の入った本があったよな・・・という感じで。僕は「あらゆる事物には固有の位置がある」という前提から抜け出せない「空間1.0」な人間なので、近年、ますます弱りゆく自分の脳のバックアップ体制としても、まだこうした「物体的に展開した」状態でないとダメなのだ。

もっとも、これは僕がこれまで割と頻繁に引越しをしてきた(住所変更は17回、高校と大学の寮の「部屋換え」を含めると30回近く「引越し」をした)ために、僕の個人年表では「住所」が時代区分として便利だという事情があるのかもしれない。留学した3年間を除けば、結婚するまでずっと同じ場所の同じ家に両親とともに住んでいた妻の場合は、時代区分は「学校の学年とか」だそうで、それはまあ真っ当な区切り方であるのだが、生まれてこのかた、「幼馴染の友達とかもずーっとそのへんに普通に居る」という、移動のない「地続きのメモリー」が育む感受性というか世界観も、これはこれで興味深い。

と、こんなことを考えたのは、ここ数日、急に流れるようになった「雨あがりの夜空に」とか「トランジスタ・ラジオ」を耳にすると、いきなり登戸の寮の部屋のイメージが鮮やかに頭に浮かぶから、なのだった。

ところで、妻は「西暦で話されるとわかんなくなる」という。年号でないと駄目だということではなく、個人史の年表的に、時代を自分の「学年」や「年齢」で記憶しているため、「1987年に」とか言われても咄嗟にそれがいつごろのことだったか、把握できないというのだ。

道行きのシークエンシャルな記憶と地図上の座標的把握との齟齬に似てる。「時制の鳥虫問題」である。というか、時間は空間だということだなたぶん。

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